sketch/2015.12.19【力こぶ】

幸せな仕事を終えて帰る道すがら、ちょっとオムレツが食べたくなる。だいぶワインを飲んだから少々千鳥足だ。ギターが肩に食い込むし、少し休みたい。期待通りに灯る看板に誘われて店内へ。TVの中では「どっちの料理ショー」で広末涼子が腕を振るっている。だいぶワインを飲んでいるので、ここでビールを始めてしまうと、翌朝までひびくコースだ。しかし酔っているのでおかまい無し。そしてプレミアムモルツとたらこオムレツという、プリン体のゴールデントライアングルを注文。


 広末涼子の隣で腕を振るうこの店の大将は筋骨隆々で、商店街を自転車で走っていると一目でわかる。メーカーズマークのボトルが私名義で入っているはずだが見当たらないなぁ、とか思いながらも、半年以上ぶりなので気まずくて聞けない。大将の力こぶの威圧感も半端ないので聞けない。結局最後まで聞けない。そして大将のぶっきらぼうな接客と、ふわふわなオムレツとのギャップ萌えを味わいながら今日の事を振り返る。


どこへ行ってもそうだが、演奏中にやかましくする子供たちに、悪い気分がしないのはなぜか考えていた。大人のやかましさには、はらわたが煮えくり返るのに。テレビの中の広末涼子と、目の前の筋骨隆々の大将の料理姿を見比べながら考える。オムレツは今夜も絶品だ。調子にのってカキフライも注文。CDが良く売れたので気前もいい。しばらくボーッとテレビを眺める。広末涼子の作る料理も完成した。「広末、同い年かぁ。松坂大輔も、朝青龍も同い年かぁ」と、どうでも良い思考と共に考える。


考えていると、結局私も子供達と同じなのだと思い始める。子供に黙れと言うのと同じ様に、私に歌うなと言っても難しい話だ。私も子供達同様に「しょうがないなぁ」という世間の大きな目で許されている気がしてならない。彼らと違うのは、人様の前で表現をさせて頂いているという謙遜と、自尊との対立構造が、どうしようもなく拭えないという問題を抱えているというぐらいで、実際私の周りの人間達は、私を大きな目で「許してくれている」。あとは、子供達のように無条件に許されるはずが無いので、社会的な肩書きや信用をせっせと取り繕い、表現を続けている。


とかなんとか考えてみたもののまとまらない。カキフライの衣だけはオムレツのように滑らかにまとまり、見事な一体感をみせているが好みではない。もっとざっくりした衣が私は好みだ。「カキフライの色も形も、自慢のオムレツナイズなんですね。」などとは酔っていても言えない。大将の力こぶを見ると何も言えない。


 さて、「ガキども〜、うるせ〜なぁ」と思いつつも、彼らの無邪気な振る舞いについ顔がゆるんでしまうのは、紛れもなく私が広い心の持ち主であり、そして「子供達に頬笑んでいれば好印象だ」などという少々下世話な心のミクスチャーであり、とても人間味があるなぁと、2杯目のプレモルを傾ける。この時点で二日酔い確定である。


 最後に、今夜ぎゃーぎゃーやかましかった美しい天使達へ。きっと人生のどこかで(かなり早い段階で)今は許されているその表現を、頭ごなしに否定される日がくるだろう。そして、君たちの美しさは次第に影を潜め、忘れ、まるで無かった事の様に消えてしまうかもしれない。(因に私は中1の国語の授業で、自分のユーモアを粉々にされた。それから、私は随分つまらない子供になってしまった。この話はいつか。)


 そんな時は思い出して欲しい。今夜あの場所に居た、沢山のやさしい大人達の事を。(酔っぱらいばっかりだったけれど)


 そして、いい年したおじさんが、一生懸命歌っていたことを。


 さらには、決して大人の力こぶには屈しないで欲しい。今晩の私の様に。