失敗は、毎日している。
自然とリカバリーも上達する。
失敗に気がつくという事も『上達する』。
そう言って良いだろう。
牽引免許の卒業検定を終え、午後の北埼玉。北関東のどこまでも続く平野には、ところどころに菜の花畑の黄色が美しい。
小川がきらめく。
季節の明らかな変わり目に気がつくのは、こんな一日である。光の種類が変わるといった感じだろう。
「撮りますよ、はい。」
写真機へ向かう私の顔は自分でも分かるくらいに疲れ、すこし老けた気もする。
苦し紛れではあるが、『深く味わいのある』という表現であれば、明日へ向かえそうだ。
新しい免許証をまじまじと眺める。
辺りを見渡すと、同じようにうつむき歩く人の群れの中。
環状八号を北上しながら、昨日の自分の選択にご満悦の私であったが、回復に向かう午後の天気とは裏腹に雲行きの怪しい状況。
大事ではない事件は、大事を避けるための必要条件だと思う事にするわけだ。
軒先からしたたる雨粒がベランダの手すりを叩き、カリンバのような音がしている。
不規則な音が続いていると、それはそれで規則的にも聞こえ始めるから不思議だ。
ここは日本で今は春の、まだ凍て返したりする時期であるが、亜熱帯の木陰でうな垂れる心地がするのは、さっきから聞こえてくる音がカリンバよりもバリのガムランの音色に近いと気がついたせいだろう。
もう深夜1時をまわったところ。明日は早い。
雨脚が弱まると今度こそ、ガムランの音色よりもカリンバに近い気がする。
録音のセッティングというのは、本当は1日かけて行いたい。出来ることならば、音作りにもう一日。そして3日目あたりから本腰を入れて、1週間くらいを一日3時間程度の集中力で続けたい。
人も銭も揃うなら。
寿司屋で軽くのつもりが、居酒屋へはしご。
この季節、桜吹雪きに出会うと何とも言えない幸福感に包まれる。
満開は好きじゃない。咲始めや葉桜が好きだ。満開などを見ても、気持ちの行き場に困る。
ずっと出来ずにいた恩返しの気持ちもあったのだけれど、一緒に音を鳴らすと、それどころか、私はまたもや、沢山頂いてしまったのだ。
満開は少し行き過ぎ、ハラハラと舞う花びらの記憶がまたひとつ生まれる。
去年の今日は、春の嵐だったと羊毛くんは言った。
赤坂の夜はギラギラしていて、客引きの少女のあどけなさが、この街には不釣り合いなのか、それともこのネオン街の本性なのか私には見分けがつかない。
池袋で寿司をかっ込んで、そのあと電車に揺られていても、いつかのように鬼気迫るものはなく、ただ削ぎ落とされてゆく感覚。
午前4時。頭がフリーズ。
やっとギターを手にするものの、すぐに力つきる。
長く延びた爪が、不意の力仕事でぐにゃりと折れまがるが、爪は折れず一瞬はがれ内出血に近い状態の指が2本。そして手首のけんしょう炎。
そして、時間がいくらあっても足りない。
市民運動をしている人々に触れると、私自身が少し充電される心地になる。
その感覚はもしかしたら、私が歌う事で誰かに与えているものに近いのではないだろうか。そんな気がする。
明日のイベントで振る舞うドイツ料理の仕込みで一日が終わる。今年は料理にも力を入れたいと思うのだが、一筋縄ではない。
丸一日充電している車のバッテリーの様子をうかがいながら、ピザ生地の発酵をまち、ギターにさわる。ラチェットを片手に車の下に潜ったりもする。
私の手の向かうところはいよいよ、とっちらかっているので、せめてもと物をいろいろと捨て始めている。
この日に来るメールの内容は楽しみだったりするが、ここ数年のこの日はとくに誰からも音沙汰がない。
私も特に面白いことを考えたりする事を辞めてしまっている。