sketch/2016.1.27【私の価値】

 私はシンガーソングライターである。歌いたい事を歌うだけだ。そんなわがままな表現でお金を頂く仕事に、私はずっと疑問を抱いていたが、向き合うと面倒なので放置していた。手の怪我もあり、歌ともギターとも少し離れていた間、少し向き合ってみた。


 正直、私の人気は国民的に見ると無いに等しいので、地方で興行を打っても閑古鳥が鳴く。金になるかも分からない興行を打つなど、行く先々のカフェやライブハウスに申し訳が無いし、私自身が辛い。


 そして、人気を得る為にライブをし、動員を増やすなどの涙ぐましい努力は、私の表現とは無縁であり、全くの茶番である。


 正直なところ、私は音楽で生活していきたい訳ではなく、歌を続けたいだけだ。その為に沢山の肩書きを持ち’’生活する為の歌’’から逃げ果せているのだ。生活する為の歌は、私の歌ではない。


 ただ、この世でそれが金に換えられるのであればそうさせて頂く。それだけだ。随分偉そうではあるが、そのくらいの自負が無ければ、もともと人前で歌など披露するはずがない。どんなに謙虚な事を言おうが振る舞おうが、表現をして金を得る人間はそのくらい図太いと思っていい。


 オファーが途絶えるのであれば、それが私の価値である。そして、お寿司のくだりはふざけているようで本気だ。これまで、本当に優しい人達に恵まれ、信じられない程に幸せなおもてなしを受けた。ギャラなんか無くても、その人達が大好きだし私はこれからも身銭を切ってでも会いにいくだろう。小豆島なんかは金を払ってでも行く。高知もそうだ。半分遊びにいくようなものだ。


 そして、そのおもてなしのお陰で、私はもてなされる喜びを知り、私もまた人をもてなす喜びに目覚めた。guzuriがここまで来れたのもそのお陰さまだ。


 今回、演奏の価格公開に踏み切った最大の理由。それは、もっとオファーが欲しい。そして、私を求めて欲しい。そういう意思表示だ。


 私は社会的には随分と大人だし、不動産のデベロッパーや銀行マンとだって対等に話が出来る。


 しかし私は未だに、表現に対しては砂場で遊ぶ子供のようだ。手を出すと怒るが、見ていなくても機嫌を損ねる、どうしようもない子供だ。


 そして、しつこいようだが、お寿司のくだりは本気である。うなぎでもいい。


 私のユーモアだと思ってくれてもいい。