sketch/2015.12.31【捨てさるべきもの】

 日常生活では、当たり前であるが気を使う生き方をしている。数年前から始めた日々を綴るsketchだが、今年は365日を納めた。人目に触れるものだから、どうしても気を使う。気を使うと、筆が進まなくなる。


 いつからか、あるテーマに沿って書いている事に気づくのだが、これについて意識するようになってからは不思議と筆が軽くなった。そして、それがいつしか私の、シンガーソングライターとは別の顔の表現方法に変わって来ているのを感じる。


 私はかつて三島文学と出会い、音楽にその美しさを表現したいと思った。描写の世界は、景色をいかようにも操作でき、思考にリンクしてゆく。それは私の中にある、守るべき聖域のように佇み、音の中で表現された。そしていつまでも、忘れては行けない無垢であり、私の心の掟だ。


 しかし日々の無情に、私の掟はみるみると破られ、いつの間にかぼろぼろだ。情けない話だが、歌と向き合っている以外はほとんど掟破りの人間である。そんな人間ではあるが、私自身が、自ら作ったものとは疑わしくなる程のものに、何度も何度も救われながら生きてきた。


 私の表現は限界を迎えていたのかも知れない。


 しかし、ある作家と出会う。「誰も行かない所へ行き、誰もやらやい事をやり、それを面白おかしく書く。」をモットーにした、エンタメノンフィクション作家の高野秀行氏だ。この氏との出会いは、三島作品と私の間にある根本的な隔たりを解消した。その隔たりとは「ユーモア」である。


 そもそも、中学1年時は、国語の授業が大好きであった。挙手率は優に9割を超え、抜群のセンスで笑いを取っていた。教室がどっかんどっかんなる事が快感であった。つまり、すべての問題に対し、全くすっとんきょうな回答で、授業妨害も甚だしく、ある時先生に大目玉をちょうだいした。当たり前だし自業自得だが、それからというものの国語に嫌気が指し、とにかくスポーツへまい進した。かなり大雑把ではあるが、というか雑な経緯であるが、そんな感じだ。


 それから20余年。私の日々の中にあるユーモアがようやく日の目を見そうな気配がしているのだ。私も一応「シンガーソングライターでありながら、誰も行かない所」へ行こうとしてるし、実践もしている。そして、大真面目だからこそ、面白おかしい日々がある。


 これまでの私の表現といえば、日々の美しさ、儚さ、恋や、戒め、寂しさ、嬉しさ、喜びや悲しみ、そういった描写に取り組んでおり、決してユーモアは相容れなかった。


 ユーモアどころか、私の心の中の決して音楽では表現されない部分は、かなりの年月をかけて広がりをみせ、もうずっと前から私のもう一つのリアルとして君臨している。私はいつの間にか、どうしようもない二面性を持ち合わせてしまった。


 そんなとき、高野文学に出会いノンフィクションを面白可笑しく描く妙を見た。


 伝え方によっては、これまでのファンを失いかねない危険な橋であるが、言葉の魔術師と呼ばれる私ならばその橋を渡れるであろう。少なくとも、出来の悪いMCで墓穴を掘るよりは。


 『二面性を美しくユーモアに描く』


 これこそが私に表現出来る文章であるはずだ。その想いは、天から射した光なのか、大量の音楽ファンを放出する前触れなのかは、まだ分からない。


 物事は見方や伝え方によって、良くも悪くも表現出来る。爆笑は得られないが、心の二面性を可笑しく表現出来た時などは、不思議とダークサイドがほぐれてゆく。そうやってすべてを受け入れて行けば良いと思っている。(本音も建前も、どちらも本心という事は良くある。)


 数年前から始めた日々を綴るsketchだが、今年は365日を納めた。人目に触れるものだから、どうしても気を使う。気を使うと、筆が進まなくなる。しかしいつからか、不思議と筆が軽くなった。


 「  褒めない、媚びない、感謝しない。」


 およそこの世界で生きて行く為に必要であろう気持ちを捨ててからは不思議と筆が軽くなった。


 今日も筆を置いたとたんに、その三つとも必要な世界が待っているが、


 「褒めたり、媚びたり、感謝したり」そういう世界を可笑しく切り取って、心の凝りをほぐしてゆきたい。それが私の為であり、誰かの日々を豊かにしてくれると信じている。


 音楽を始めた時の気持ちと、変わりはない。