sketch/2014.3.11

東日本大震災から3年。


アスファルトがこんにゃくのようにうねり、ビルとビルはぶつかりそうなほどに揺れていた。


吉野家の牛丼は売り切れ、タクシーは捕まらない、携帯は繋がらない、自転車は売り切れ、とにかく帰りたい、そう思った。飯田橋と九段下の間にあるサンマルクカフェ。小さな揺れが次第に大きくなって行く。外に飛び出す。もう揺れが大きくなりはじめてからは文明は機能しなくなっていた。


よくよくこの日を思い出す。


不謹慎だけど、あんなふうに大地がうごめく事にとても感動した。太刀打ち出来ない大きな力を目の当たりにして、目が覚める思いだった。


それでも、ビルは倒れなかったし、東京の人々は生きていた。沢山のものにまだまだ守られていた。なんとかなるという、たかをくくっていた。たくさんの事がなんとかなってしまった。


政治、経済に関心を持ち、会社を作り、世界を知れば知るほど、沢山のことに諦めがついた。知らなくても良い事を知る事で、失われた心を取り戻す為には、徹底的に知る事だと思った。


そして、その中にいる意味を少しずつ受け入れてきている。


 


あの日の失われた命に、僕の心はどれだけ、痛んだのだろう。もしかしたら、遠い砂漠で難民が空爆を受けた事のように、遠い痛みなのかもしれない。それが悲しい。


藤井さんは、すぐに福島へ向かったという、津波のあと、アメ公(アメリカ軍)はやっぱり災害慣れしてて頼もしかったと言ってた。僕は行動しなかった。大切な人と居る事を選んだ。TVでふくいちの爆発をみたときも、本当に情けないほどに実感はなかった。坂上次郎さんは「空襲が隣町に来ても、隣の家に火が上がるまで実感が無いんです」戦争をそんな風に振り返っていた。


そう、実感もイメージも出来ない。多くの人はきっとそうだと思う。薄情でもなんでもなく、それが人間だと思う。


3.11の後、音楽は決して無力ではなく、人々の心の灯火になったと思う。そういう活動をする音楽家をたくさん知っている。そしてみんなそれぞれ葛藤しながら音を出していたのだと思う。そしてそれは確実に誰かの光になった。


僕はそういう活動はできなかったけど。


3年たった今、僕は自分のやりたい事に関わる人を幸せにしたい、そう思っている。僕の音楽を好きでいてくれるひと、音楽活動や会社をサポートしてくれるスタッフ、guzuriに集まる人々に、家族に、幸せな時間を過ごして欲しい。今はそれで精一杯。


原発や政治に関わる活動家や、ジャーナリストの皆さん、そして個人で発信してくれている人達には本当に感謝している。いつも新しい情報を与えてくれて、僕は無関心にならずにすんでいる。PUFFINを立ち上げた時の志も、持ち続けていれる。


 平成23年6月20日作成 PUFFIN 株式会社 定款 目的 第2条 その5


 | 太陽光等自然エネルギーでの発電による余暇電力の売却 |


 


そして、僕自身に何か力になれる時が来たら、惜しみなく心を注いで行きたい。


 


3年前の今日、命を落とされた方のご冥福を心よりお祈りいたします。


世界は確実に変わっていますよ。