sketch/2014.3.19

15日のことから書くと、とにかく幸せな誕生日からの流れだった。夜景の綺麗なスパで、割とあっさりとした打ち上げの後で一人になると、心地よい幸福感に包まれた。もう気がついていたけど、大先輩達の傘の下でぬくぬくとした気持ちでいたのだった。この頃の僕は、音楽を誰かの為だとかそんなこと思わずに、ただ音楽と共にある事に喜びをみている。今は。


そのパフォーマンスの為に人生の多くの時間を捧げている。でも、それが社会貢献になっていないのであれば、対価をもらってはいけないと思っているのだけど、それが実のところ自分では判断できない。それをマネージャーやスタッフに尋ねたことがあった。その答えで僕は今も人から対価をもらう現場へ出て行く勇気をもらっている。とにかく何かの役に立っていないと、自分のやっている事に意味を見いだせない。誰の為でもなく音楽をただ喜びとしている裏で、それが誰かの為になっていないとやってられないという問題は、とても人生らしく、もう何度もこういう問題のもとで音が生まれている。


15日のライブと17日のライブ。


どちらも僕は大きな傘の下で音楽をしていた。リクオさん、チャボさん、花田さん、おおはたさん。


とっても近くで、素晴らしい景色を沢山みせてもらった。僕よりも沢山の景色をみているその目の中を覗き込んだ。思い返すと、いろんな事を考えながらしばらくボーッとしていられそうだ。もう二度とあの時間が戻って来ないという寂しさが積もってく。二つのライブの景色が違いすぎて、しかも客人として出演することで、自分の居場所をすっかり見失った気がしている。いい意味で振り出しに戻った。


今、近所のカフェは、バカみたいにうるさくてガヤガヤしているけど、とても集中できる。なんだろな。ブログ、FBやツイッターで感謝の気持ちを伝えるのが好きではないのだけど、自分のこと書かれてると嬉しいのは、せこいな俺。


ふと思う、 美しく綺麗な言葉に引かれるのは、それが僕にはそもそも欠けている物だからなのかもしれない。と。


子供の頃から三日坊主の僕が、音楽だけは長く続けられているのは、そこにあるのかも。いつも歌う情景には普遍性がある。そう心掛けている。自分の移ろいやすい気持ちや、常に変化して行く日常の中に、普遍性を求めて安心しているのだろうか。だから、歌を歌う時だけは、安らいでいられると、そう思うと納得出来る。なので、決して僕は歌の中の様な人ではないし、それを自分で思うのも多少へこむ。憧れであり、そうありたいと思う。


そして、そもそも社会貢献しているのか、、という問いにもどると。ある人にとっては、金とるんじゃねぇになるだろうし、ある人にとっては、絵画をみる様な気持ちにもなるだろうし。


僕は、僕の作る曲を愛しているし、それは僕が作ったんだけど、もうもしかしたら僕じゃないので、作品自体にいつまでも恋をしているようでもあるので。つまり、僕は演じるけど、ある意味、曲自体の客人なのだと思う。それを表現する為にギターも歌も練習する。


ここまで来て、こんなつらつらした文章を、いつも書いては消す。という言い訳をたてて、今日もアップするだろう。


僕は、移ろう人間だから、作り出すものだけは移ろわないで欲しい。


 


あー、また話がとんだけど、僕のキャパでは薄っぺらい感謝にしかならない。それでも、リクオさんと出会って、少しずつ新しい芽吹きが生まれているのは確か。周りにも新しい事を始めている仲間が何人もいる。助けられている。


感謝って、なんだろう。


ありがとうなのか。。


違うなぁ、、


ありがとうを、行動で示して、始めて感謝になるんだと思う。


たった一通の手書きのハガキや、僕の知らないところで僕の事を思ってくれた発言も。感謝は、態度で示すことだと思う。それがFBやツイッターでもいいんだけど、僕の場合は違う方法でやりたい。思い返すと、沢山の感謝を僕はほとんど出来ていないと思った。


 あー、今日は辿り着いた。長い思考のあとで、辿り着いた。


一つは。 僕が人前で演奏する目的は、ありがとうを届ける。表現を許してくれてありがとう。その音楽が、癒してくれて、いろんな景色に連れて行ってくれて、喜びや、表現の糧に、僕にも、あなたにとっても、生活の糧になるようにと。その表現の為に僕は沢山の時間を捧げて来たし、これからも捧げて行く。


しばらく、そんな気持ちでいられそうだ。


なんだか、結局ファーストアルバムの歌詞カードに書いたメッセージみたいになってる。まあいいか。そういうことか。


 


そして、同じステージで音を重ねる瞬間は尊く、お互いの人生を切り取った貴重な瞬間に敬意を込めて演奏したい。リクオさん、チャボさん、花田さん、おおはたさんとのステージを終えて、大きな二日酔いを経て。辿り着いた。これまでもそういう気持ちではいたけど、これまで以上にそうでないと。


おかわりのアメリカン珈琲も3杯目で、やる事沢山あるけど、順番めちゃくちゃ。新しい手帳がほしい。


ニールヤングの自伝の影響が未だに強いな。


理屈っぽいねと、よく言われる。これは僕の性分だけど、好きじゃない。


だから理屈抜きに伝わる音、というか僕の場合は声を選んだのだと思う。

sketch/2014.3.11

東日本大震災から3年。


アスファルトがこんにゃくのようにうねり、ビルとビルはぶつかりそうなほどに揺れていた。


吉野家の牛丼は売り切れ、タクシーは捕まらない、携帯は繋がらない、自転車は売り切れ、とにかく帰りたい、そう思った。飯田橋と九段下の間にあるサンマルクカフェ。小さな揺れが次第に大きくなって行く。外に飛び出す。もう揺れが大きくなりはじめてからは文明は機能しなくなっていた。


よくよくこの日を思い出す。


不謹慎だけど、あんなふうに大地がうごめく事にとても感動した。太刀打ち出来ない大きな力を目の当たりにして、目が覚める思いだった。


それでも、ビルは倒れなかったし、東京の人々は生きていた。沢山のものにまだまだ守られていた。なんとかなるという、たかをくくっていた。たくさんの事がなんとかなってしまった。


政治、経済に関心を持ち、会社を作り、世界を知れば知るほど、沢山のことに諦めがついた。知らなくても良い事を知る事で、失われた心を取り戻す為には、徹底的に知る事だと思った。


そして、その中にいる意味を少しずつ受け入れてきている。


 


あの日の失われた命に、僕の心はどれだけ、痛んだのだろう。もしかしたら、遠い砂漠で難民が空爆を受けた事のように、遠い痛みなのかもしれない。それが悲しい。


藤井さんは、すぐに福島へ向かったという、津波のあと、アメ公(アメリカ軍)はやっぱり災害慣れしてて頼もしかったと言ってた。僕は行動しなかった。大切な人と居る事を選んだ。TVでふくいちの爆発をみたときも、本当に情けないほどに実感はなかった。坂上次郎さんは「空襲が隣町に来ても、隣の家に火が上がるまで実感が無いんです」戦争をそんな風に振り返っていた。


そう、実感もイメージも出来ない。多くの人はきっとそうだと思う。薄情でもなんでもなく、それが人間だと思う。


3.11の後、音楽は決して無力ではなく、人々の心の灯火になったと思う。そういう活動をする音楽家をたくさん知っている。そしてみんなそれぞれ葛藤しながら音を出していたのだと思う。そしてそれは確実に誰かの光になった。


僕はそういう活動はできなかったけど。


3年たった今、僕は自分のやりたい事に関わる人を幸せにしたい、そう思っている。僕の音楽を好きでいてくれるひと、音楽活動や会社をサポートしてくれるスタッフ、guzuriに集まる人々に、家族に、幸せな時間を過ごして欲しい。今はそれで精一杯。


原発や政治に関わる活動家や、ジャーナリストの皆さん、そして個人で発信してくれている人達には本当に感謝している。いつも新しい情報を与えてくれて、僕は無関心にならずにすんでいる。PUFFINを立ち上げた時の志も、持ち続けていれる。


 平成23年6月20日作成 PUFFIN 株式会社 定款 目的 第2条 その5


 | 太陽光等自然エネルギーでの発電による余暇電力の売却 |


 


そして、僕自身に何か力になれる時が来たら、惜しみなく心を注いで行きたい。


 


3年前の今日、命を落とされた方のご冥福を心よりお祈りいたします。


世界は確実に変わっていますよ。