sketch/2015.12.31【捨てさるべきもの】

 日常生活では、当たり前であるが気を使う生き方をしている。数年前から始めた日々を綴るsketchだが、今年は365日を納めた。人目に触れるものだから、どうしても気を使う。気を使うと、筆が進まなくなる。


 いつからか、あるテーマに沿って書いている事に気づくのだが、これについて意識するようになってからは不思議と筆が軽くなった。そして、それがいつしか私の、シンガーソングライターとは別の顔の表現方法に変わって来ているのを感じる。


 私はかつて三島文学と出会い、音楽にその美しさを表現したいと思った。描写の世界は、景色をいかようにも操作でき、思考にリンクしてゆく。それは私の中にある、守るべき聖域のように佇み、音の中で表現された。そしていつまでも、忘れては行けない無垢であり、私の心の掟だ。


 しかし日々の無情に、私の掟はみるみると破られ、いつの間にかぼろぼろだ。情けない話だが、歌と向き合っている以外はほとんど掟破りの人間である。そんな人間ではあるが、私自身が、自ら作ったものとは疑わしくなる程のものに、何度も何度も救われながら生きてきた。


 私の表現は限界を迎えていたのかも知れない。


 しかし、ある作家と出会う。「誰も行かない所へ行き、誰もやらやい事をやり、それを面白おかしく書く。」をモットーにした、エンタメノンフィクション作家の高野秀行氏だ。この氏との出会いは、三島作品と私の間にある根本的な隔たりを解消した。その隔たりとは「ユーモア」である。


 そもそも、中学1年時は、国語の授業が大好きであった。挙手率は優に9割を超え、抜群のセンスで笑いを取っていた。教室がどっかんどっかんなる事が快感であった。つまり、すべての問題に対し、全くすっとんきょうな回答で、授業妨害も甚だしく、ある時先生に大目玉をちょうだいした。当たり前だし自業自得だが、それからというものの国語に嫌気が指し、とにかくスポーツへまい進した。かなり大雑把ではあるが、というか雑な経緯であるが、そんな感じだ。


 それから20余年。私の日々の中にあるユーモアがようやく日の目を見そうな気配がしているのだ。私も一応「シンガーソングライターでありながら、誰も行かない所」へ行こうとしてるし、実践もしている。そして、大真面目だからこそ、面白おかしい日々がある。


 これまでの私の表現といえば、日々の美しさ、儚さ、恋や、戒め、寂しさ、嬉しさ、喜びや悲しみ、そういった描写に取り組んでおり、決してユーモアは相容れなかった。


 ユーモアどころか、私の心の中の決して音楽では表現されない部分は、かなりの年月をかけて広がりをみせ、もうずっと前から私のもう一つのリアルとして君臨している。私はいつの間にか、どうしようもない二面性を持ち合わせてしまった。


 そんなとき、高野文学に出会いノンフィクションを面白可笑しく描く妙を見た。


 伝え方によっては、これまでのファンを失いかねない危険な橋であるが、言葉の魔術師と呼ばれる私ならばその橋を渡れるであろう。少なくとも、出来の悪いMCで墓穴を掘るよりは。


 『二面性を美しくユーモアに描く』


 これこそが私に表現出来る文章であるはずだ。その想いは、天から射した光なのか、大量の音楽ファンを放出する前触れなのかは、まだ分からない。


 物事は見方や伝え方によって、良くも悪くも表現出来る。爆笑は得られないが、心の二面性を可笑しく表現出来た時などは、不思議とダークサイドがほぐれてゆく。そうやってすべてを受け入れて行けば良いと思っている。(本音も建前も、どちらも本心という事は良くある。)


 数年前から始めた日々を綴るsketchだが、今年は365日を納めた。人目に触れるものだから、どうしても気を使う。気を使うと、筆が進まなくなる。しかしいつからか、不思議と筆が軽くなった。


 「  褒めない、媚びない、感謝しない。」


 およそこの世界で生きて行く為に必要であろう気持ちを捨ててからは不思議と筆が軽くなった。


 今日も筆を置いたとたんに、その三つとも必要な世界が待っているが、


 「褒めたり、媚びたり、感謝したり」そういう世界を可笑しく切り取って、心の凝りをほぐしてゆきたい。それが私の為であり、誰かの日々を豊かにしてくれると信じている。


 音楽を始めた時の気持ちと、変わりはない。

sketch/2015.12.30【みそっか】

 夜風を切って行きつけの寿司屋へ入ると、見慣れた顔だ。年の瀬の挨拶に心温まる。今年もいよいよ終わりを迎える。トーベンさんと約束したお正月アルバムの事を考えていたら、不意にJBの「セックスマシーン」が口をついた。


 「ゲロッパ!みそっか!おおみそっか!」


 我ながら傑作だ。連れの大爆笑に気をよくした私は歌い続ける。


 「みそっか!おおみそっか~」


 晦日の住宅街に響き渡る。

sketch/2015.12.29【小吉】

 参道には出店が軒を連ね始めている。幅10m以上はありそうな立派な参道。車を停めてから、境内を横切り、参道をさかのぼって入り口の鳥居まで。そこから出直して順路を辿る。いつも通りのやりかた。


 立派な杉の大木の参道をゆっくり歩く。えびす様のような太鼓腹をし的屋のおじちゃんが、のんきに店支度をしている。いったいどうすればそんな立派な太鼓腹になるのだろうかと感心する。


 カラスに、「カー、カー」と話しかける。こちらにそっぽをむき糞をされるが「お。運がつくね。」と、ポジティブな年の瀬がゆく。初詣ならぬ詣納めのススメ。


 おみくじは小吉。


 

sketch/2015.12.28【私の器】

 深夜の山手通りをタクシーに揺られていると、ちょっとだけスクリーンの中に居る気分になる。首都高速の高架下の甲州街道をほんの少し横切ると、1人目の目的地。引き続きタクシーに揺られる。井の頭通りを西に向かう。高校生のころ読んでいたロマンスの舞台はおよそ東京の西側だった。あの頃の憧れの町も、今は良く知る町。そして居心地の良い町になった。始発を待つことをせずにタクシーに乗り込んだはいいが、割増メーターに少しずつ酔いが覚めてゆく。それが私の器である。

sketch/2015.12.27【ビグとトーベンさん】

トーベンさんは珈琲。私はビール。リハーサル後のひと時はBYGで過ごす。主催者のマヒトさんが、既に缶ビールで出来上がりつつあったので、私も追いかけ始まる。外はまだ明るい。こんな風にトーベンさんとBYGの3階(正確には2.5階)で過ごす時間はマイヒストリーの1ページだ。『12月の雨の日』の共演からおよそ干支が一回りしている。トーベンさんはいつの間にか僕の事を「しんすけ」と呼ぶようになった。それがとても嬉しい。なんとなく、大切な時期にはいつもトーベンさんがいる。ビグ(BYGのこと)の古いスピーカーからはビーチボーイズが流れている。この場所の古い時代の話を沢山したあと、来年はアルバムを一緒に作る約束をした。

sketch/2015.12.26【暖冬】

今年の紹興酒納めである。ライブを終え、ロバハウスを後にし、行きつけの中華料理店へむかう。4人掛けのテーブルは宴の後だったので、カウンターに腰を下ろす。今年も足しげく通った店の大将にちょっと話しかけてみる。


 「今年もありがとうございました。いつもとても美味しいです。」とか言ってみる。


 客席のカウンターよりも少し高くなっている厨房内は、換気扇やら冷蔵庫やらの騒音で、こちらの声が聞き取りづらいらしく、私の年の瀬のご挨拶が全く届かない。考えてみれば、いつもオーダーを伝えるだけで精一杯だったのだから、とても私の長文が聞き取れるはずが無い。必ずと言っていい程、オーダーを聞き返してくる大将がみせるリフレインのジェスチャーは、2015年私的モノマネレパートリーの中でもトップ3に入る。


 今夜も美味しく頂き、店を後にする。まだまだ手袋はいらない。暖冬だ。ちょっと大将のマネをしてみる。つまらなそうにそっぽを向く連れの表情を見る限り、決して他では披露すまいと心に誓う師走の夜道。


 暖冬である。

sketch/2015.12.25【ダークサイドに落ちたクリスマス】

目指すのは山の上にそびえるマンション。横浜の狭小道路を森さんのバカでかいラムバンで進む。


 都市計画が始まるよりずっと前に、我先にと住宅を構えた名残だろうか。依然としてセットバックを拒み続けているような住宅街を抜けてようやく辿り着いた今年最後の現場。重い扉を運び出し、設置する。3匹の猫が檻の中からこちらの様子をうかがっている。


 彼らの悪さを阻むための仕切扉の設置に、知ってか知らずか随分とこちらが気になる様子だ。猫らにしてみれば縄張りを狭くされてしまうとんだクリスマスプレゼントに違いないのだが、我々人間は完成した扉に大満足し、ピザを食べながら談笑している。カイ君と私、そして森さんとボスとで食卓を囲む2015年のクリスマスである。


 そして


 すべてが思考停止してしまいそうな深夜。このままではミッションコンプリートできずに意識を失ってしまうので、いつものダイナーへ繰り出す。ビールを傾けながら名刺の束を物色。私にご利益のありそうな人達をピックアップする。


 キリストの誕生日は昨日と変わらず、ブッダ寄りの板前さんと一緒である。どちらかと言えば私の方がキリスト寄りだ。キリストにもブッダにも顔向け出来そうもない心境の私は、年賀状リストの作成に忙しい。周りはワイワイ年の瀬ムードだ。


 入間から横浜、横浜から静岡、そして入間と、ぶっ飛んだ一日を終えた私の頭もぶっ飛びそうなもんだが、年賀状リストを完成させなければいけない。状況だけみると、かなりの疲労困憊だが、そんな心配をよそに頭は冴え渡り、『私にご利益をもたらす人達を選ぶ』といったダークサイドの思いは、スターウォーズの世界と同じで私に素晴らしい力をもたらしてくれた。


 世間的に気持ちの良い言い方をすれば、お世話になった方への新年のご挨拶の為に一生懸命なのである。つくづくこの世は本音と建前と世間体とで面倒だ。『それでも愛しいと思えるところに、救いがある。』と、救済のセルフサービスを決め込んで、ダークサイドの中の良心に問いかける。『アナキンも、マスクの男も、辛かったんだろうなぁ』などとほんのり思う。時間にして2秒くらいだ。


 ふと、合コンへ行っていると言う「ほっとレモンの男」にメールで茶茶を入れてみる。帰って来た返事は「ほっとレモンぶっかけますよ」だ。どうやら合コンがうまくいかなかったらしい。これからこっちへ来るというので、急いで身支度をした。その後は電話も無視する。


 明日はライブなのだ。

sketch/2015.12.24【クリスマスは大好きです】

地上62mへ向かうカゴの中で、目の前の連れはギャーギャーうるさい。どうやら高所恐怖症らしい。


 西の空ではサンセットが始まっている。友人の家も見える。「あれが所沢で、ツインタワーがあるから、あそこは小手指だ。」とか、とにかく目に入るものに説明を付けて気を紛らわす。てっぺんを超え下降を始めると気持ちは徐々に穏やかになる様子で、私も同じであった。実は私も高いところが得意ではない。


 小林幸子がプロデュースしたらしいイルミネーションは、想像をまずまず上回る美しさ。昭和の名残のように佇む東京の西の外れの遊園地は、妙に居心地が良い。今時珍しいインスタントラーメンの自動販売機で空腹を満たしたり、あと20ほど若ければ大満足であろうマジックに興じる35回目のクリスマス・イブ。ライトアップされた乗り物なんかに乗っていると、不思議と異国情緒まで感じられる。
 
 お次ぎは地上80m、展望タワーからの夜景に西武グループの威厳を感じ、どこまでも続く平野の夜景に、なんとも言えない敗北感まで漂ってくる。何に対しての敗北感なのかもはっきりしないまま、展望タワーは回転を続ける。そして後を追うように私の思考も回り始めた。


 『私も立派な大人になった。そこそこ反抗期もあったが、クリスマスには抵抗をしなかった。いつしか、サンタが架空の存在だという悟りを開き、さらにはキリスト誕生の日という、およそ我々民族とは無関係な人間を祝うミステリーにも目をつぶった。そしてたまたま迷い込んだ夏祭りきさながらに、神仏そっちのけで金魚すくいを始めてしまっているような、とっても無邪気なこの国のパロディーにも無抵抗だ。』


 クリスマスについては、多くの国民が何かしら思っているはずなので、私がいまさら騒ぎ立てる事ではないが、園内のクリスマスムードが、いつの間にか私の反骨精神を煽り始めている。しかし、今日の日を台無しにする訳には行かない。思いがけず灯ってしまいそうな反骨心などは到底お呼びでない。点灯が歓迎されるのは、幸子のイルミネーションであって、私のパンク精神などではない。


 さて、クリスマス・イブの遊園地、ひときわ高校生のカップルが眩しい。流行りの自撮り棒を手に初々しいが、私から見れば完全に青春勝ち組だ。「親とクリスマスケーキを分け合う思春期の敗北感は知っておいたほうがいい。」などと格言面をする私だが、少し前に乗ったジェットコースターに酔ってしまい足下をふらつかせている。おまけに悲鳴まで上げてしまったので、さっきから連れにからかわれているが、なにやら楽しそうなので悪い気はしない。失態がネタになるのは何よりだ。


 私は引き続き、この国のクリスマスをシリアスに考えているのだが、目に映るものすべてが幸せそうなので、なんだかバカバカしくなってしまう。私のパンク精神も一向に幸子イルミのように灯る気配を見せない。そして人形に向かっては’’幸子’’などと呼び捨てにしているが、本人を目の前にすれば、’’さん付け’’で改まるのが目に見えている。さらには、この幸子イルミネーションを誉め称えるに違いないのだ。私はそういう人間なのだ。とどのつまり、この日を選んでこの場所に来た時点で、そんなシリアスやパンク精神を持つ資格さえ無いのだ。


 暫くしてもう一度、地上80mからの眺望が見たくなって列に並んだ。憧れのパンクロッカーになれなかった私の心は、それでももう一度、あの『なんとも言えない敗北感』を求めていた。


『あの感覚はなんだったのだろうか?』と。(お忘れかもしれないが、本編4段落目に出てくる『なんとも言えない敗北感』のことである。)


 列には、カップル、アベック、家族連れと、クリスマスムード満点の園内だが、どちらかと言えば、眼下の怪しげな’’幸子さん’’の人形の方が、よっぽど私の心情との重なる。「幸子さんは、どこまでプロデュースをしたのかなぁ。」とか、「プロデュースの定義は広すぎて曖昧だ。」とか、いちいちケチをつけてみる。そんなつまらない話に、隣の連れは話半分の面持ちだ。相づちも見受けられないが、来年プロデュース業が待っている私には、決して人ごとではないのである。


 さてさて、この西武グループの威厳を見せつけるかのようなジャイロタワーは、空気が澄んでいれば、東京タワーどころか横浜のランドマークタワーまでが見渡せると言う。


 再びの広大な夜景。そして思う。


『この感覚は敗北感では無いのだ』と。


そもそも始めから勝負すら無く、さながら『支配』という響きの方がしっくりくる。


 それでいても尚、この国のクリスマスを’’一生懸命’’シリアスに考えてみるのだが、やはり私の目に映る景色とは、あまりにも対照的だ。そして美しい夜景を前に『私がいくら考えても仕方の無いことなのだ』ど、安堵をおぼえる。(思考放棄とも言う)


 しかし、タワーが下降をする程に迫ってくる’’幸子さん’’のシュールな横顔と、彼女がプロデュースしたらしいイルミネーションが、『この国のチグハグなクリスマスの縮図なのでは無いのか?』などと、私もまだまだ諦めが悪い。


 不意に、遠くで悲鳴が聞こえる。目を向けるとキティーちゃんが先導を勤める(3歳から乗れるらしい)ジェットコースターが相変わらず役割をまっとうしている。(断っておくが、以外と怖い。)やっぱり話はぶり返しからかわれるが、悪い気はしない。


 ホットドック売りの女の子を見ても、バイト終わりを待つ彼氏が遊園地の駐車場で待っているようなストーリーを連想し、チラと時計を見る仕草にも、クリスマス・イブにしか感じようのないロマンスを見てしまう。


 『支配』という言葉がよぎる。


 『支配は、以外と不幸な事ばかりではないのかも知れない。卒業など出来ないのかもしれない。だれもが尾崎豊のようにはなれないのだ。』(ここまで話が進むと、我ながらお手上げである。)


 今夜は運良く席を確保出来た馴染みの店も、入り口のイルミネーションからしてすっかりクリスマスムードだ。結局のところ、どう考えても、この支配からの卒業は、今夜の私たちにはにふさわしくない。


 扉をあける。


「メリークリスマス!」


 そして、どちらかと言えばブッダ寄りなアフロの板前さんと、彼の繰り出す絶品のティラミスケーキで、イエス・キリストの誕生を祝うのであった。


 めちゃくちゃな話ではあるが、子供の頃からクリスマスは大好きなのだ。

sketch/2015.12.23【どちらも本心である】

私がこの町に居を構えてから来年で10年目だ。いつからかこの辺りはジョンソンタウンと呼ばれる様になり、地域を上げてのイベント事やクリスマスコンサートも毎年行われるようになった。


 ここ数年は目に見えて来場者も増え、店舗の多い目抜き通りはすっかり観光地の装いだ。タウンが進める観光化は、確実にこの町を私の理想郷から遠ざけるものであったし、もちろんクリスマスコンサートへの出演依頼も毎年辞退させて頂いていた。しかしだ、今年はついにクリスマスコンサートへの出演を承諾。私を良く知る人達からは「どういう風の吹き回し?」などという声もチラホラ聞こえてきたわけだが、私の風の吹き回しについては次の通りである。飽きずにお付き合い願いたい。


 この町は常に変化を続けている。隣人の老夫婦の芸術家も、guzuriの隣にあった広いコイン洗車場も、ここが世界の果てかの様な錯覚も、オールドストーリーの中で生きているような気分も、みんな消えて無くなった。少しずつ、目に見えて、着々と無くなって行く9年だった。唯一変わらないのは、guzuriの窓から見える公園の景色だ。私も変わり続けた。長く伸ばした髪を切り、髭ヅラを卒業し、車もワーゲンからボルボに移り、個人事業主から代表取締役に、そしてまた長髪になった。もう一つ変わらないのは「私と別れた女性はおよそ1年以内に結婚する」という、20代から繰り返されている私的ジンクスくらいだろうか。「風の噂では君が嫁いだ」という状態は相変わらずだ。これについては1stアルバムに収録されている『アトリエの冬』を参照頂きたい。


 そして、道へ出れば観光客がカメラを構えこちらを狙っている。うかうかパンツに手を突っ込んでゴミ捨てなどに行けばちょっとした事件だ。観光客の気合いの入ったよそ行きと、私の気の抜けたパジャマ姿では、正当性はどちらにもあるにせよ、こちら側の精神状態の方が明らかに分が悪い。そして、私の精神状態をよそに、タウンの賃貸稼働率は上昇を続け、どうやら空室待ちの状態らしい。


 飽きずにお付き合い願いたい。


 私も肩書きだけは一丁前で、社長業も今年で5年目である。世の中を見る目は、すでにそこそこ経営者の目線だ。この数万坪のハウスの群れを管理する家主の気持ちになれば、この観光化にも十分な理解を持てる。この町の環境管理を考えればパンツに手を突っ込んでゴミ捨てに行く事も自粛できる大人なのだ。そして、今度こそ、私の風の吹き回しについては次の通りである。


 切っ掛けは『アド街ック天国』への出演依頼である。始めはのっけから断るつもりでいた。が、私もすでにそこそこ経営者の目線を持っている。真っ先に思った事はといえば、「出れば、お客さん沢山くるかもなぁ。儲かるかもなぁ。」


 真っ先に思ったことが経済効果であった事は誠に残念だが、くそ真面目な話をすると。そもそも、私がこの場所に身を置くことになった理由は第一に、米軍ハウスの音楽史的な重要性や憧れである。経営者の以前に、ここに来た理由がある。増加を続ける観光客に、これ以上アウトレットに行くのと同じ面持ちでこの町に踏み込んできて欲しくない。只でさえ、パンツに手を突っ込んで歩く平和的な日常を献上しているというのに。


 さらに出演を断れば当然、私が抱くハウスへの想いまでも排除された状態で全国的にこの町が知れ渡ってしまう。そう思う程に、「それだけは何としてでも食い止めなければいけない。」という、極めて個人的な危機感を抱いた。(この時点で、エンタメ性を重視するテレビに対する危機感も抱くべきだったのだが、残念ながら私利私欲もちらついている人間にそんな冷静な判断力は期待できない。)


 結局、2日間に渡る撮影のほとんど、そしてインタビューで語ったハウスへの想いはすべてカットされ、そもそもアメリカンという切り口で『富士宮やきそば』が上位に食い込むはずも無く、結果は13位と惨敗であった。


 放送後は見事に客足が増え、嬉しい悲鳴であった。しかしながら、私のハウスへの想いは、伝わるどころか、恐らく「富士宮やきそばがある珈琲店で、よくわからないけど、歌う人?」という謎めいた認識を植え付けてしまったに違いなく、私の個人的なモヤモヤは募るばかりだ。


 さて、気をとりなおして、今回、私がクリスマスコンサートに出演したのも同じ理由である。私が歌う事で、この町に受け継がれる音楽史を知って欲しかったからだ。世間様に、この町がミーハーな解釈だけで知れ渡るのはどうしても許せないのだ。


 この町の観光化は、いつからか私の中に小さな違和感を生み出し、少しずつ育まれていった。そして『アド街ック天国』という全国的長寿番組を前に、いよいよ逃げも隠れも出来なくなってしまったという訳だ。


 私がこの町に居を構えてから来年で10年目だ。いつからかこの辺りはジョンソンタウンと呼ばれる様になり、地域を上げてのイベント事やクリスマスコンサートも毎年行われるようになった。今日は始めて町の人達と一日を共にした。正直、文化祭のようで楽しかった。


 一次は雨天中止との声も上がったコンサートだが、特別に立てられたテントには、ストーブを囲む私と10名程のアリーナ。外では、傘をさす人、向いの店の軒先で暖をとる人、沢山の人が歌を聴いていた。


 ちょっと時間がかかったけれど「ここで歌う事が出来て本当によかった。」そう思えた。そして四の五の言わずとも、私には歌がある。歌えば人々に伝わる。そんな気がした。


 これまで、タウンが見せる観光化への動きには賛同出来ずにいた。ただ、もしも私がこの町を、目先の利益に捕われて運営するのであれば、とりあえず低層マンションをメインとした開発をするだろう。話によると、そういう選択肢にせまられた時期もあった様子だ。


 


 『アド街ック天国』のカメラが回っている。


 すべてカットされたが、沢山の想いを話した。最後に一つの質問が私に投げかけられる。


 「今後、この町がどんな町になって欲しいですか?」


 すこし考えて答えた。


 「そうですね。賑やかになろうが、廃れて行こうが、この町が無くならなければ、どうなっても良いと思っています。」


 話を続けた。


 「米軍ハウスがこの時代まで集落で残っていること自体、奇跡みたいなものですからね。」


 そして心の中でも回答を続ける。


 「どうせなら、この放送が儲け話に繋がって欲しいですね。」と。


 どちらも本心である。

sketch/2015.12.22【ほっとレモン事件】

「小手指まで迎えに来てくれたら飲み放題。」という迷惑メールにまんまと引っかかり車を出す。入間市駅までの終電車はとっくに無い時間帯だ。


 深夜に寿司を食べながら、お湯割り梅干し入りもすでに3杯目。明日は9時に現場集合だというのに。(現場というのは音響も頼まれているジョンソンタウンのクリスマスコンサートのこと)


 さて、小手指駅で拾った酔っぱらいは相当にできあがっており、席を立つ度にカウンターの椅子を豪快にひっくり返している。そして何やら訳の分からない事を言っている。


 「『ほっとレモン』を迷惑なオヤジにひっかけてやりましたよ。」


 電車内の出来事らしい。(因に『ほっとレモン』とは甘いレモン水を温めた飲み物)


 「絶対に僕は悪くないんですよ。明らかにあのオヤジはみんなの迷惑だったんですよ。」と、みんなの為にやったのだと言わんばかりだ。


 水ならともかく『ほっとレモン』をひっかけられた人が気の毒だし、後日談としても水や酒ならともかく、甘ったるい『ほっとレモン』では被害者も浮かばれない。かくして、今夜の私は酔っぱらいから真相を引き出す事にいつの間にか必死だ。そのうち私まで酔っぱらい、いつしか酔っぱらいの宴と化すのだが、話は次の通りだ。


酔っぱらい:「泥酔したオヤジが寝転んじゃってて、すごくじゃまだったんですよ。明らかに周りも迷惑してたし、僕が代表して蹴ったんですよ。そしたら睨んできましてね。頭にきたので『ほっとレモン』をかけてやったんですよ。」


 わけがわからないしひどい話だ。そもそも、いきなりケリを入れたら当然睨まれる。(私の察するに、蹴ったとか言っているが、靴先でコツいたぐらいだろう。)睨まれたお返しに『ほっとレモン』をかけられたら私でも怒る。同然オヤジは反撃に転じ、押し返してきたらしい。しかし迷惑さを共感していた車内の数名が味方についたらしく、オヤジは退散したのだという。


私:「だからさ、なんで『ほっとレモン』をひっかけちゃったんだよ。明日べとべとだよその人。水ならともかくさ。」(私も酔ってきているが、たしか『ほっとレモン』はハチミツ入りだ)


 私の真剣な説教が続く。次第に、乾いたときに尾を引く『ほっとレモン』をひっかけてしまった過失に気がつき始めた様子で、重い口が開く。そして本当の事が明らかになってくる。


酔っぱらい:「最初、蹴ったあとに睨まれたんで、謝っちゃったんです、僕。」


私:「ん? で?」


酔っぱらい:「謝っちゃった自分に腹が立ちましてね。飲んでいた『ほっとレモン』をひっけちゃったんですよ。」


 まとめると、理由は真っ当にしても先に手を、いや足を出している。蹴られたオヤジはやり返さずに精一杯な睨み返しで応戦。それに少々ビビった酔っぱらいは、相手の臨戦態勢を前に、謝ってしまう。しかしながら、条件反射的に謝ってしまった事に対して、今度は小さな小さな自尊心を守る為の’’ほっとレモン攻撃’’に打って出たというわけだ。そして最終的に、どつかれるほどではないが、押されている。やれやれである。(『押されている』では文章に迫力が出ないので、書き手としてはせめて少しどつかれてほしいところだが、嘘を書く訳にもいかない)


 もうどうでもよい話なわけだが、ここに小さな世界情勢を垣間見ずにはいられない。大なり小なり、世界和平の均衡とは所詮こんなものだろう。そもそも、真っ当な理由など無いのだ。真っ当という概念自体が、国や地域、宗教はたまた集合体によって異なる。各団体の真っ当をかざして先にケリを入れる事が、遥か遠い昔から繰り返されている。


 今回は、蹴りを入れた酔っぱらいがフランス軍だとすると、迷惑な酔っぱらいオヤジはイスラム国で、車内の味方は国連に当てはまりそうだ。(浅はかな発言はご容赦頂きたい。私も酔っているのだ。)


 私のお説教は全く耳に入らないようなので、アフロの板前さんに助けを求めることにした。カウンター越しの存在感と見た目のご利益は、私の比ではない。


 「こいつに説教して上げて下さいよ。」と私。状況を説明。


 「○○君さぁ、そういう時はまず、迷惑ですよ。と声をかけなくちゃ。」


 うんうん、と私。メモメモ、と私。


 結局その後も、○○君は席を立つ度に豪快に椅子をひっくり返し、私よりも遥かにご利益のあるお説法に耳を傾け、無事に改心に向かうのであった。


 店を出ると、私もすっかり酔っぱらいだ。明日の現場入りまでは5時間を切っている。世界はバラバラなんだなぁとしみじみ思い、曇った夜空に星野源の『ばらばら』という歌が浮かぶ。逆に「世界はおやすみ」などといった甘ったるい歌がミスマッチな帰り道だ。明日に向かって天気は下り坂だという。


 世界は一つじゃ無い。遠い昔から変わらないことだけれど、それでいい。それでいいから、誰もが安らかな眠りにつける、そんな世界へ向かって欲しい。今も星空に怯える夜が世界のどこかで続いている。


 そう思うと、隣の酔っぱらいを蹴り飛ばしたくなってくる。まだ少し残っていたらしい『ほっとレモン』をポケットから取り出し飲み干したその姿に、その思いは一層強くなるが、ここで私が足を出してしまえば、また負の連鎖が始まってしまう。そして何よりも、こんな情けない酔っぱらいにゴチになっている私にその資格は無い。さながらフランスに便乗するアメリカのようではないか。


 大なり小なり『ほっとレモン』の事件は世界情勢の縮図に違いない。


 車内で泥酔をしていたおじさんが、このsketchの愛読者では無い事を願い、そして愛読者であったとしても、決して負の連鎖を引き継いでもらいたくない。


 明日にはきっとベトつくはずの洋服も、私の友人の事も、どうか水に流して良い年末を迎えて頂きたい。